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愼英弘の部屋VOL.10「差別をなくすためには」

 「差別をなくすためにはどうしたらいいのか」という問題について、かつて私は論文を執筆したことがある。それは、ある大学が発行している雑誌に掲載された。それを学生等は読む機会があったが、一般の書店で販売されているわけではないので、学生以外の人々に読んでもらうことは困難であった。そこで、今回はその内容を紹介することにする。しかし、同雑誌に掲載されたのは今から四半世紀も前のことであり、差別状況が解決したものもあるので、その部分を除くなどの加筆修正をしている。


「差別をなくすためには」

はじめに

 ここでは、差別とりわけ障害者差別をなくすためには、どうしたらいいのかということについて述べることにする。
 ここに取り上げたことは、差別をなくすためには必要な条件だと私は考えている。しかし、これだけで充分な条件だとは考えていない。差別をなくすためには、少なくとも、ここで取り上げた課題を解決する必要があるということである。
 差別をなくそうとするときに一つの大きな問題が往々にして生じることがある。それは、権利と権利の衝突という問題である。差別をなくすためには、特にこの問題は重要であるので、その具体的事例を紹介するとともに、これを一体どのようにして解決したらいいのかを考えてみたい。なぜなら、この権利と権利の衝突をうまく調和させて解決しない限り、おそらく世の中から差別はなくならないと私は考えているからである。

 

1.差別するのは本能か

(1)無意味な議論

 あるとき私は「障害者差別と人権」というテーマで講演したことがあった。そのときの感想文の一つに次のようなものがあった。「差別や偏見というものは、人間の本能だと思う。だから差別はなくならないと思う。」と。このように考えている人は、意外と多いのではないだろうか。したがって、このことについてまず考えてみることにしよう。

 「差別するのは人間の本能だから、差別はなくなるはずがない」とか、「どんな社会にも差別はあり、人間は大なり小なり差別されながら生活している」とかいう言葉をよく耳にすることがある。本当にそうだろうか。このようなことを言う人のほとんどは、差別というものがどのようにして生まれ、どんな形態で現れているかについて認識していなかったり、差別がどのようにしたらなくなるのかについて考えていなかったり、差別の重みに押されてあきらめの境地になったりしているのではないだろうか。

 差別をするのは人間の本能かどうかということについて、いくら議論したとしても、そこからは何も生まれてこないと私は考えている。かつて、人間は生まれながらにして善であるのか悪であるのかの議論、すなわち性善説・性悪説についての論争があった。今でも論争をしている人がいるかもしれない。その性善説や性悪説というのは、ものの見方や考え方、人生に対する見方や考え方の問題である。つまり、人間の頭や胸を切り開いたところで、そこに善人が住んでいるわけでもないし、悪人が住んでいるわけでもない。切り開いてもどちらの説が正しいかなどは全くわかるはずがない。したがって、単に人間の生き方や論理の問題であって、いくら議論をしたとしても結論は出ない。すなわち、堂々巡り、水掛け論にしかならない。差別をするのは人間の本能であるとか、ないとか、という議論でも同じことがいえるのである。

 差別をするのは人間の本能であるという人も、本能ではないという人も、それなりの理屈を立てている。しかし、それをいくら議論したとしても、人間の心の中や頭の中の状況を証明することはできないので、結局は水掛け論になるだけにすぎない。

 それではどうすればいいのだろうか。もしも、差別をするのは人間の本能である、と考えてしまったらどういうことになるのか。逆に、差別をするのは人間の本能ではない、と考えてしまったらどういうことになるのか。このことを考えればいいのではないだろうか。そこからは、自己中心主義的な考え方をもっていない限り、出てくる答えは一つだろうと私は考えている。

 

(2)「本能である」と考えると

 仮に、「差別するのは人間の本能である」と考えるとどうなるだろうか。いま差別をしている人はいつでも差別をする側に立ち、いま差別をされている人はその状況が永久に続くということになる。ところが、実際にはこんなふうになることは少ない。

 差別をする人はいつでも差別をする側に立っているかというと必ずしもそうではない。逆に、差別されている人はいつでも差別をされる側に立っているかというと必ずしもそうではない。それは当然、逆転することもある。たとえば、障害者が女性差別をしたり、女性が障害者差別をしたり、障害者が外国人差別をしたり、外国人が障害者差別をしたり、等々ということはいくらでもあることである。また、交通事故にあったり、生活習慣病にかかったりして健常者が障害者になることも大いにあり得る。そうなれば、たちまち障害者差別を受ける側に立つことになる。したがって、常に差別をする側に立つ人がいて、その人がいつまでも差別をする側に立ち続けることができるとは限らない。差別をされる側に立つこともあるのである。そして、逆の場合もあるのである。

 このように、差別をするのは人間の本能であると考えると、ある事柄でいま差別をされている人は、違う事柄で仮に差別をする側に立ったとしても、差別されている状況から抜け出すことができるわけではない。また、差別するのは人間の本能だから、差別することからも抜け出すことは当然できないということになる。

 そうすると、差別されている人の将来の人生は真っ暗闇だということになる。なぜなら、差別されている状況から抜け出せないからである。

 たとえば、質の違う例ではあるが、会社員で何の役職にも就いていない人がいるとしよう。その人は永久に主任にも係長にもなれないということが就職したときから決まっていたらどうだろうか。これでは働く意欲がわくだろうか。もちろん、それでかまわないという人も中にはいるかもしれないが、しかし、初めから出世がないと決まっていたら、人生の楽しみは半減してしまうのではないだろうか。差別をされている人がいつまでも差別され続けることになるということが最初から決まっていれば、女性も、在日外国人も、そして障害者も、差別されているすべての人について同じようなことがいえるのではないだろうか。人生の楽しみが半減するだけにとどまらず、人生とは苦しい以外の何物でもないものになってしまうのではないだろうか。

 

(3)「本能ではない」と考えると

 それでは、「差別するのは人間の本能ではない」と考えるとどういうことになるだろうか。そう考えるならば、今は差別をされている実態があったとしても、差別をなくす努力をすれば、少しずつではあるかもしれないが、そのような実態はなくなっていく、と確信できるはずである。そして、いつかは差別のない社会が来るかもしれない、という希望がもてるはずである。したがって、「差別するのは人間の本能ではない」と考えると、将来はバラ色になるのではないだろうか。

 たとえば、今は何の役職にも就いていない社員だが、いつかは課長にも部長にもさらには社長にもなれるかもしれないという状況があれば、働く意欲は大いにわくだろう。もちろん、課長や部長や社長になりたくない人は別だが。

 私のように障害者差別を受けながら、あるいは朝鮮人差別を受けながら生活している者にとって、今はさまざまな差別があるが、自分もまた周りの人も差別をなくす努力をすれば、今の状況は変わるのだということになると、これから先の生活は非常に明るくそして楽しみだというふうに思える。

 それでは、いつそういう社会が来るのかということだが、それは努力をする度合いによる。本当にみんなが一生懸命にやれば、100年かかるところを80年、80年かかるところを50年、50年かかるところを30年、等々というように当然短縮される。現に、私の全くの主観ではあるが、私が世の中に差別というものがあることを実感したのは11歳の頃であり、それからおよそ65年近く過ぎ去ったが、50年前に比べると40年前の方が、40年前に比べると30年前の方が、30年前に比べると20年前の方が、20年前に比べると10年前の方が、10年前に比べると現在の方が、差別状況というのは格段に少なくなっていると感じる。つまり、50年間というタームでみると、差別の状況は随分変わってきているということである。もちろん、古い差別がなくなり新しい差別がつくられているという実態はある。しかし、断然、差別事象は少なくなっているということはいえる。したがって、当然、10年先、20年先、30年先‥‥‥にはもっともっと差別状況が少なくなっていくだろう、ということはほぼ間違いないだろう。

 さらにいえば、「どんな社会にも差別はある」などとは限らない。現実の社会には確かに差別はあるが、未来社会においても差別が存在するなどとは誰も断言できない。また、「人間は大なり小なり差別されながら生活している」などという人もいるが、これまた未来まで引きずられていくなどとは誰も断言できないのである。

 私は、以上述べてきたようなものの見方・考え方の基盤に立って、差別問題を考えてもらいたい、ということを強調しておきたい。「差別するのは人間の本能である」と考えてしまったら、そこからは明るいものは何も生まれないばかりではなく、暗い人生が待っているだけである。差別するのは人間の本能で「ある」とか、「ない」とかということを議論するのではなくて、「差別するのは人間の本能ではない」と考える方が、人生の生き方としては非常に前向きだということができる。

 ところが、中には、「差別するのは当然である」と考えている者もいる。新聞等にも、「差別するのは人間の本性だから、差別をなくす努力をしたところで、なくなるはずがない」などという意味のことを、時々書いている人がいる。私にいわせれば、そんなことをいう人がいるから差別は、なかなかなくならないのである。すなわち、そのような、差別を助長しようとする発言をしたり、あるいは差別をなくそうとする努力を否定したりするので、換言すると差別がなくなることを妨害しているので差別がなくならないのである。

 差別をなくすためには、基本的な姿勢として、差別はなくなるのだという立場に立つことが重要である。差別というのは、みんながなくす努力をすれば、少しずつではあるにせよ、なくなっていく、そして将来は完全になくなるのだという立場に立つことが肝要である。

 

2.差別の三つの現象形態

(1)差別の現象形態とは

 差別とはいったい何かということを定義するのは非常に難しい。いろいろな人がさまざまな定義をしているが、ぴったりするのはなかなかない。何が差別かというのも、わかったようでよくわからないような状況があることもある。

 私は、差別というものを言葉によって定義するよりも、差別をなくすという観点から定義する方が意義があると考えている。

 私は、差別の現れ方には三つのパターンがあると考えている。これを、“差別の三つの現象形態”とよんでいる。

 差別されている人はたくさんいる。障害者・在日外国人・被差別部落出身者・女性・アイヌ民族・高齢者等々いろいろな人々がいる。外国にもさまざまな差別を受けている人がいる。

 世界中のあらゆる差別は、必ずこの三つの形態に類型化することができるといえる。その三つとは“制度による差別”、“言葉による差別”、“意識による差別”である。人間社会において差別とよばれるものはすべて、これら三つのうちのどれかに含まれる。これら三つの形態以外の差別はないと私は考えている。

 いろいろと本を読んでいると、差別には「社会的差別」と「個人的差別」があると書かれているものもある。「個人的差別」というのは何となくわかるような気もするが、「社会的差別」というのは何のことか今一つよくわからない。差別というのは必ず差別をする主体があるはずである。差別する主体を「社会」とするのは、どうもよくわからない。社会というのは人間によって構成されているものであり、その社会が差別をするなどという主張は、何が差別であるかを曖昧にさせるものである。差別する主体は必ずあり、それは必ず人間だということを忘れてはならない。時々、「歩道に段差があり、車椅子で通ることができないのは差別である」ということを耳にするが、それは差別でも何でもない。歩道の段差が障害者を差別しているわけではない。歩道の段差を解消しようとしない行為や意識が差別なのである。やはり、差別の主体は人間なのである。

 前述したように、私は差別というものを、制度による差別と言葉による差別と意識による差別の三つに分類している。何ゆえにこのように分類するかというと、差別の現れ方が違うからである。差別の現れ方が違うということは、当然のことながら差別をなくす方法も違うということである。

 ところが、差別をなくすためのこれまでの運動のほとんどは、差別の現れ方についてあまり議論がなされていないように思われる。そのため、差別をなくす方法も明確には打ち出せていないように思われる。差別事件が起これば、差別をした人と話し合いするとか、差別に対して正しい理解を求めるとか、あるいは差別をした人を糾弾するとか、特定の人を排除する制度などを改善させるとか、等々取り組んではいるものの、今一つ明確な方法に基づいているとは思われないのである。私は、差別の現れ方を認識し、どのようにしてそれぞれをなくすべきかについて検討する必要がある、と考えている。「差別をするのはいけないことだ」ということは多くの人が認識しているはずである。それにもかかわらず、いまだにさまざまな差別が存在している理由の一つに、多くの人が何が差別なのかをよく理解していないことがあるのではないだろうか。差別の現象形態が違うのであるから、差別をなくす方法も違って当然だということが充分に認識されたならば、差別解消運動はもっと幅の広いものになることは間違いないと私は考えている。

 

(2)制度による差別

 制度による差別とは、法律等の規則やさまざまな制度に基づく差別のことである。すなわち、法・制度によって特定の人を排除したり、特定の人の権利を制限したりあるいは剥奪したりしている現象のことである。この形態の差別は、人間の作り出した仕組みにすぎないから、仕組みを変えさえすれば、つまり法律等の規則や制度を変えさえすれば、制度による差別はなくなるのである。

 このように、制度による差別とは、権利が侵害されている状況がある、あるいは排除されている状況があるわけだから、非常にわかりやすいのである。

 言い方を換えると、制度による差別は主観的にも客観的にも「やっぱりおかしい」と感じる人が多いはずである。「多い」と書いたのは、「それでも差別ではない」という人がいるかもしれないからである。そういう人は論外であるから、そのような人を除けばたいていの人は「おかしい」と感じるはずである。

 障害者差別の問題ではないが、在日外国人と女性の問題で制度による差別の具体例を紹介してみよう。

 かつて郵便局職員が国家公務員であった時代には、在日外国人は郵便局の外務員(郵便の配達員)以外の国家公務員になることができなかった。在日外国人は、郵便局の窓口で切手や葉書を売ったり振込の手続きをしたりするような内務員にはなることができなかった時代があった。運動によって、その後、内務員にもなることはできるようになったが、郵便制度が民間事業になった現在では、日本で生まれて日本で育った者であっても、在日外国人は外国籍だということだけで国家公務員にはなることができないし、その他の多くの職場から排除されたり、社会保障の権利が制限されたり剥奪されたりしているのである。また、日本相撲協会の相撲部屋の親方になることができないというような制度になっている。

 このような状況をみれば、在日外国人が制度的に排除されているということは誰でもわかるはずである。中には、「外国人だから権利がなくても排除されていても仕方がないんだ」という人がいるかもしれないが、それは別の問題であり、排除されているということは誰でも認識できるはずである。

 女性の場合を例にとってみよう。公務員の場合は男性と女性の賃金には差別はない。つまり同一賃金である。ところが、企業の中には、女性の賃金を男性のそれよりも低くしているところもある。これは、明らかにおかしいと感じるはずである。同じ労働時間であるにもかかわらず、同一賃金でないというのは、明らかに平等性を欠いている。中には、賃金に格差を設けるのは当然だという人がいるかもしれないが、そういう人であっても、女性の賃金が男性のそれよりも低いという事実については誰でも認識できるはずである。

 それでは、視覚障害者の問題を例にとってみよう。目の見えない人は、公立学校の教員になりたいと思っても、点字受験を認めている都道府県や政令指定都市等でしか教員にはなることができない。たとえば、大阪や東京や福岡等というような大都市圏では点字受験を認めているので、教員になる道が開かれているが、およそ3分の1の都道府県やおよそ半数の政令指定都市では点字受験を実施していないので、そのような地域では教員になることができないのである。このような状況をみれば、視覚障害者が排除されているということは誰でもわかるはずである。このような状況が制度による差別なのである。

 以上のように、権利が制限されたり剥奪されたり、あるいは排除されたりしている状況があれば、それは制度による差別ということなのである。

 このような制度による差別をなくすにはどうしたらいいのだろうか。それは簡単である。法律等の規則を変えたり、制度を変えたりすればそれでいいのである。こうすれば制度による差別は完全になくなるはずである。つまり、全国どこででも教員採用試験が点字で受けられるように制度を変えたらしまいである。規則や制度を変えさえすれば、制度による差別は簡単になくなるのである。

 それでは、規則や制度を変えるには、どうすればいいのだろうか。黙っていては差別はなくならない。要求するしかない。説得するしかない。一言でいってしまうと、運動するしかないということである。

 簡単になくなるはずであるにもかかわらず、実際には制度による差別はいたるところにある。規則や制度を変えたら済むはずであるにもかかわらず、なぜ制度による差別は解消されないのだろうか。その原因としては、意識による差別や、その他のさまざまな「理由」が考えられる。

 意識による差別については後述することにするが、その他のさまざまな「理由」の中には、たとえば、制度をつくった際に一部の人を排除しているということに気がつかなかった、ということがあるだろう。つまり、教員採用試験というのは教員になりたい人が受けるのであるが、目の見えない人が受けるなどということを最初は全く思いもしなかったのかもしれない。だから点字受験を実施しなかったのかもしれない。ところが、そのような状況を改善する運動が展開されるようになった結果、点字での教員採用試験を認めようということになったのであり、一部の地域では制度による差別がなくなったのである。しかし、運動のない地域や運動の力が弱い地域では、いまだに点字による教員採用試験を実施するまでにはいたらず、制度による差別が解消されていないのである。

 ほかの「理由」を挙げると、制度による差別であることをどうしても認めようとしないために、差別が解消されずに現存し続けているということがあるだろう。たとえば、排除されたり権利が剥奪されたりしているような差別を、解消してほしいという要求があると、制度をつくった人や法律等を制定した人の中には、「そのようなことを言うのはあなたたちだけである。ほかの人は何も言ってこない。何も言わないということは、ほかの人は差別だとは思っていない証拠だ」などというようなことを主張したりする者もいる。このような「理由」は意識による差別とも非常に関わることである。意識による差別については後で述べることにするが、制度による差別は規則や制度さえ変えればなくなるという点では簡単に差別状況をなくすことはできるとはいえ、意識による差別とも関わることからもわかるように、実際にはなかなかそううまくいかないのが実状である。

 繰り返して強調すると、大々的な運動を展開すれば法律等の規則やさまざまな制度を変えるのは困難なことではない。しかし、意識による差別に関係するような状況が背景にあるときには、差別だといえるような法制度であっても変えることがなかなか難しいというのもまた実状である。

 

(3)言葉による差別

 言葉による差別とは、差別語や差別的表現を使用することによって、特定の人に精神的苦痛や屈辱を与えることである。このような現象は差別ではないと主張する者もいるが、生きる意欲さえ挫いたりするような言葉を使用することが、なぜ差別ではないといえるのだろうか。また、そのような言葉が日常的に使用されたりすることによって、特定の人に対する偏見がもたらされたり、先入観が植え付けられたり、さらには排除されたりするような状況が創り出されることもある。このことからしても、やはり差別語や差別的表現の使用は言葉による差別であり、それが差別現象形態の一つであることは否定しようがないのである。

 まず、差別語と差別的表現の違いについて述べると、差別語とは言葉そのものに差別的意味合いが含まれている言葉のことであり、差別的表現とは一つ一つの言葉には差別的意味合いは含まれていなくても言い回し全体の中に差別的意味合いを含んだ表現のことである。

 たとえば、「めくら」という言葉は以前はよく使われたが、差別的意味合いがあるということで最近ではほとんど使われなくなった。ところが、この言葉は差別語ではないと主張する人もいる。「めくら」というのは目の見えない人をさして表現した言葉であるからだというのである。これは、確かにその通りである。しかし、「めくら」とかいう言葉は、単に目が見えないという状態にある人をさすだけではなく、それ以外の意味を含んだ言葉として使用されることがあるのである。このような言葉は比喩的に使われるときに、特に差別的意味合いを含んでくる。そして、それが長い年月にわたって使われ続けることによって、言葉そのものが差別的意味をもった使われ方をするようになったものと考えられる。拙著『視覚障害者に接するヒント』(1997年)の第5章で述べた「めくら蛇に怖じず」や「めくら判」という表現はその典型的な実例である。

 また、人間には波及現象・後光現象という心理作用があるので、差別語の使用から、事実とは全く違うありもしないイメージがつくり上げられてしまうこともある。このことについてもすでに同書の第5章で述べたのでここでは割愛する。

 誤ったイメージがつくり上げられた結果、「そのような障害者とはつきあいたくない」とか「仲間に入れたくない」というような排除が生まれてこないなどとは誰も断言できないはずである。差別語の使用が、障害者排除の状況をもたらした原因のすべてではないにせよ、一定の「役割」を果たしてきたことは疑い得ないだろう。

 次に、差別的表現について述べることにしよう。差別的表現には差別語が含まれている場合もあれば、全く含まれていない場合もある。ある表現において、差別語が含まれている場合には、それが差別的表現であるということは比較的わかりやすい。ところが、差別語が含まれていない場合にも差別的表現になることはあるのであるが、このような場合には差別的表現だとはなかなかわかりにくいこともある。特にこの場合には、わかりにくいが故に差別状況が一層陰湿に現れることもあるのである。

 たとえば、誰かが次のようなことを言うとしよう。「あそこには特別な人が住んでいるから、あまり近寄らない方がいい」と。この表現中には差別語といわれるものは一つも使われていない。ところが、この表現は使い方によっては、明らかに特定の人を排除しようとする意味合いが含まれてくるのである。「特別な人」という言い方でぼやかしているわけであるが、明らかに特定の人をさしている。たとえばそれが外国人だったり、障害者だったりするのである。あからさまに「障害者」などというと、あまりにも露骨であったり、憚るところもあったりするので、直接的にいえないものだから「特別な人」などという言い方をするわけである。この言い回しにおいては、差別語は使われていないが、全体的な意味合いからして差別的表現だということは多言を要しない。差別的表現を使うことも、当然、差別現象形態なのである。

 それでは、差別語や差別的表現はどのようにしてなくしていったらいいのだろうか。差別語は、言い換え可能なものは言い換えるようにするか、言い換えができないものについては使わないようにするかである。差別的表現になるような言い回しについては、表現の背景にある意識それ自体が差別なのであるから、言い回しを変えたとしても同じことなので、背景にある意識それ自体を変えていく必要がある。言葉や表現を言い換えさえすればそれで済むのかというと、そういうものでもない、ということはすでに前掲拙著第5章で述べた通りである。やはり、何が差別語で何が差別的表現かということをきちんと認識させる取組みをする必要がある。

 このように書くと、「特定の言葉の使用を禁止したり、言い方を強制的に変えさせたりするのは言葉狩りだ」という人がいたり、「表現の自由は何よりも大切だから、どんな言葉を使ってもどんな言い方をしてもいいのだ」という人がいたりするかもしれない。

 言葉というものは時の流れとともに変化するものである。簡単な例を挙げると、平安時代の古語を、いま使っている人などはいるだろうか。私は日本の人口およそ1億2000万人全員を知っているわけではないから断定することはできないが、常識的に考えて、平安時代の古語を使っている人がいるなどとは思われない。つまり、言葉というものは、時々刻々と変わりつつあるものなのである。使用されなくなる言葉があるかと思えば、新たに作られる言葉もあるのである。私などは全然知らない流行語が年々たくさん生まれている。“流行語大賞”という賞をもうけて表彰しているくらいである。

 このように、言葉というのは、いくらでも変化するものであるから、差別語をなくす取組みをしたとしても、それは言葉狩りでもなければ表現の自由を侵すものでもないと私は考えている。しかし、差別語をなくそうとする取組みをしようとすると、大きな抵抗がある。その典型的なものに権利と権利の衝突の問題がある。そのことについては次節で述べることにする。

 差別語や差別的表現をなくしていくには、どうしたらいいのだろうか。これは難しい課題である。制度による差別のように、はっきりと排除されているとか権利が制限されているということがあればわかりやすいのであるが、精神的苦痛や屈辱があるということは、なかなかはっきりとはわかりにくい。障害者の中にも、「差別語や差別的表現なんてしいてなくす必要はないではないか」という人がいる。また、「差別語をなくしたとしても就職差別や結婚差別等の差別の実態がなくなるとは思えない」という人もいる。あるいは、「差別語を使わないでほしい、という人は、過度のアレルギー反応を起こしているだけである」という人もいる。重要なことは、差別語の問題を単に個々人の受取り方の問題だけに矮小化すべきではなく、また、差別語をなくしたとしても確かに差別の実態がなくなるわけではないが、差別語をそのまま放置しておけば、それによって新たな制度による差別等が創り出されるということを認識することである。

 差別語をなくすためには、次のような方法をとるべきだと私は考えている。何が差別語であるかを判定するための公的機関を設置することである。その機関で、国民の総意として差別語とされるものを判定することである。一定の基準もなしに、何でもかんでも差別語だというのではなく、何が差別語かということを国民の総意として検討する公の機関が必要だと考えている。そして、差別語と判定されたものを、一人一人が使わないように努力することである。

 ところが、差別語をなくそうとする取組みをしようとすると、必ず反対勢力が頭をもたげてくるので、公的機関の設置は簡単にはいかないかもしれない。しかし、この方法以外には国民の総意として差別語をなくすことはできないと考えられるので、一日も早く公的機関の設置が実現するよう力を結集することである。

 

(4)意識による差別

 意識による差別とは、たとえば、障害者が障害を有しているということだけで価値のない存在だとして蔑んだり排除しようとしたりする差別意識のことである。

 競争社会においては、競争に負ける者は価値の劣った者と見られがちである。人間の価値は競争などによって計られるものではないことを充分に認識することが大切であるが、なかなかそうはなっていないのが実状である。意識による差別をなくすのは、極めて困難なことといえるが、なくさなければならない。

 頭の中の出来事である差別意識が言動に現れたとき、初めて差別現象となる。逆にいうと、差別意識そのものが有るのか無いのかは、言動に現れない限り判断するのは難しい。頭の中を切り刻んでも、そこからは何も出てこないからである。

 差別意識が有るのか無いのかを判断するにはその人の言動を見るしかないが、しかし、差別語や差別的表現を使ったり、差別的行動をとったりしたとしても、差別的な意識が有るかもしれないということがいえるにすぎないだけである。「有るかもしれない」と書いたのは、差別意識が有るか無いかは確実にはわからないからである。というのは、差別しようとする主観的意図をもって差別語や差別的表現を使ったり差別的行動をとったりしているのか、無意識のうちにそのような行為をしてしまったのか、その見極めがなかなか難しいからである。

 しかし、判断するのは可能である。「差別語だから使わないでほしい」とか「それは差別行為だから、そのようなことはやめてもらいたい」とか言われたりしたときに、「確かにそうだ」と認識して反省し、二度と同じような行為をしない努力をすれば、この人は無意識に差別的言動をとってしまったのだと判断できる。すなわち、その人には差別しようとする主観的意図は無かった、差別意識は無かった、自分のした行為が差別言動と知らなかった、ということがわかる。繰り返し強調すると、差別行為であると認識したからには、それを二度と繰り返さなかったら、意識による差別は無いと考えられるのである。

 ところが、人から差別言動であると指摘されても「いや、自分は差別言動はとっていない」というふうに頑強に否定したり、あるいは「それの何が差別なんだ、それくらいのことで傷つくのはその人にこそ問題がある」というふうに居直ったりする人もいる。また、指摘に対して何も反論しなかったり、反省しているふりをしたりする人もいる。これらの場合、その後も同じような言動を繰り返してするようであれば、それは差別意識が現象したものであると考えられ、したがってこの場合には、意識による差別そのものが有るといわざるを得ないのである。

 以上のような意識による差別に対して、以前はどのような取組みがなされていたかというと、一般的にいって、十羽ひとからげにして糾弾するという状況が多かったように思われる。「おまえは差別をした、だから自己批判せよ!反省せよ!」と糾弾するのである。そのようにいわれた人の中には、深く反省して二度と同じようなことを繰り返さない者もいれば、いったい何が差別なのか、ときには全く気づかないまま、ときには曖昧な状況のまま反省しているという者もいたりする。特に後者の場合は、周りから「差別をした、差別をした」と言われるものだから、何が何だかわからないまま、ともかく反省しているとの姿勢を示すようなことになる。そのような状況だから、その後再び同じようなことを繰り返すことにもなる。意識による差別に対して、以前の取組みはみんながみんなそうだとはいえないが、往々にしてこのような状況があったといえる。最近では、意識による差別に対する取組みはずいぶん変わってきたといえるが、しかし、もしかしたら現在でもこのような状況があるかもしれない。

 差別語を使ったり差別的行動をとったりしたときに、差別意識が有るか無いかを見極めることが大切だと私は考えるので、やはり、まず話し合うことが必要だといえる。いきなり糾弾しても、何ら意味がない場合がある。まず話し合いをして、差別的言動であるということを認識させることが必要である。認識すれば、当然、反省するはずだし、反省したら二度と意識による差別をしないように努力するはずだと私は考えている。

 しかし、いくら話し合っても反省しない人もいる。そんなときには、私はもう徹底糾弾するしか仕方がないと考えている。

 蔑みの心や排除の心というような差別意識というものは、なくすのが極めて難しい。何しろ頭の中の出来事であるからロープで縛るわけにもいかないし、監獄のようなところに閉じ込めるわけにもいかないし、また法律でもって従わせるわけにもいかない。

 したがって、意識による差別をなくすには、一人一人の努力しかない。一人一人が、自らの差別意識をなくす努力をしなければならない。いうまでもないことだが、差別意識をなくすためには、教育やさまざまな取組みが前提となる。これなくして努力する人もいるかもしれないが、教育やさまざまな取組みの力は大きく、それを私は否定するものではない。しかし、一人一人が努力をしなければ、いつまでも意識による差別は存在し続けることになる。なぜなら、差別意識は頭の中にとどまっているだけならば誰にも影響を及ぼさないが、しかし、頭の中で考えていることというものは、ついつい言動に現れるからである。その言動は、差別的法律が制定されたり、差別的制度がつくられたりしていく温床になるからである。

 

 以上述べてきたように、差別の現象形態には制度による差別があり、それは法・制度を変えさえすればなくすことができる。言葉による差別があり、それは差別語や差別的表現を使わなかったり言い換えたりすればなくすことができる。意識による差別があり、それは一人一人が差別意識をもたないように努力をすればなくすことができる。このようにすれば、差別というものは基本的になくなるはずであるが、ところが、実際には、これだけでは差別はなくならない。それは、次節で述べる権利と権利の衝突というものが生じることがあるからである。この衝突をうまく調和させて解消しない限り、差別の三つの現象形態をなくす取組みをしたとしても、差別はおそらくなくならないと私は考えている。

 繰り返し強調すると、差別現象の三形態をなくすとともに、この衝突をうまく調和させて解決してこそ、初めて差別がこの社会から一掃されるのである。

 

3.権利と権利の衝突

 差別の現象形態には三つあると述べた。それぞれ現れ方が違うのであるから、当然、差別をなくす方法も異なるということについても述べた。これまで述べてきた方法を採れば、この社会から差別は基本的になくなるはずであるが、ところが差別をなくそうとするときに、往々にして衝突が起きることがあるために、実際には差別はなかなかなくならない。その衝突というのが、権利と権利の衝突である。この衝突をどうやって解決するか、その方法が見つからない限り、この社会から差別をなくすことは困難だと私は考えている。

 この節では、権利と権利の衝突の具体的なものとして、四つの事例を取り上げて紹介することにする。

 

(1)視覚障害者の安全保障か住民の安眠保障か

 まず最初に、視覚障害者の安全歩行の確保と住民の安眠確保との衝突から述べることにする。

 視覚障害者が街中を安全に歩きたいというのは、当然の願いである。したがって、道路を安全にわたるために信号の青色の確認ができるよう信号機に音響装置を設置してもらいたい、という要求が視覚障害者にはある。視覚障害者にとって音響式信号機の設置が有効であることは拙著『視覚障害者に接するヒント』第2章で述べた通りである(音響式信号機については、長所や問題点も含めて前掲拙著で詳述したので、ここでは割愛する)。そのような信号機を設置してもらいたいと行政に要求するのは、視覚障害者の生命を守るという立場、言い換えると生存権保障という立場からすれば、主張としては正しい。このことは誰にでもわかるはずである。

 ところが、音響式信号機が設置されている付近の住民の側からすれば、信号機に音響装置は付けてもらいたくない、ということになる。その理由は、信号の青色を示す時の音楽や鳥の声の音がやかましくて、安眠が妨害されるというところにある。住民にとっては音響式信号機の音は騒音ともいえるものなのである。人は安らかに眠りたいし、それが保障されるのは当然の権利である。このことを要求するのは、主張としては正しい。

 繰り返していうと、正しい主張同士が衝突しあうわけである。このように、視覚障害者の安全確保の保障か、それとも住民の安眠確保の保障か、という権利と権利の衝突が起きることがあるのである。

 この衝突を解消するために、一方が他方を押さえつける形で解決しようとすればどうなるだろうか。

 仮に、視覚障害者の側が、「住民は音のやかましいのぐらいは我慢せよ、障害者の命を守る方が大事なのだ」と、住民の側の主張を押さえつけたとすると、どうなるだろうか。おそらく、住民の側から、障害者に対する猛烈な反発が起こるだろう。場合によっては、「だから障害者は街中に出てきてほしくない。障害者とは一緒に住みたくないんだ」という排除が起こるかもしれない。逆に、住民の側の主張を取り入れて、「安眠保障の方が大事なのだ。視覚障害者は自動車の音を聞いて道路を渡ればよいのだ」と、視覚障害者の側の主張を押さえつけたとすると、どうなるだろうか。そういうことになれば、信号が赤色の時に道路を渡ってしまうかもしれない。そうなれば、いつ自動車にはねられるかもしれない。視覚障害者にとっては命がけの状況になってしまうだろう。

 差別をなくそうとするとき、言い方を換えると人権尊重を図ろうとするときに、このように権利と権利の衝突、人権と人権の衝突が起きることがある。そのときに、一方的に他方を押さえつけるようなことをすれば、新たな反発や排除などを生み出しかねない。

 それでは、権利と権利の衝突は、どうやって解決すればよいのだろうか。このような衝突を解決するための方程式はない。したがって、ケースバイケースで解決するしかないのである。衝突の中身がそれぞれのケースによって異なるように、解決方法もそれぞれ違うのである。

 ここで例に挙げた視覚障害者の安全確保と住民の安眠確保との衝突は、どうやって解決しているのだろうか。この場合には、だいたい二つの解決方法があるといえる。

 一つは、信号機から出る音を小さくする方法である。つまり、そんなにやかましくない程度の音にするという解決方法がある。現実にこの方法を採っていると思われる音響式信号機もある。ところが、この方法は、あまり望ましくない。なぜなら、音を小さくすると、道路を横断しようとする視覚障害者にとっては信号機から出る音が聞き取りにくかったり、せっかく鳴っている信号機からの音が自動車の音にかき消されたりして、結局は充分に役立たないということになってしまうからである。また、住民の側からすると、音が小さくなったことは確かだが、それでもやかましいということには変わりがないかもしれないからである。要するに、視覚障害者の側と住民の側の双方に不満だけが残る方法なのである。したがって、音を小さくするというのは、望ましくない解決方法だといえるのである。

 他の一つは、いま現実にもっとも多く採られていると思われる解決方法である。それは、音を鳴らす時間帯を制限する方法である。つまり、朝は8時頃から音を鳴らし始め、夜は8時頃で音を止めて、それ以降から朝までの間は音を鳴らさないようにするのである。

 すなわち、昼間だと自動車がひっきりなしに走っているので、視覚障害者にとってはどうしても音響式信号機が必要である。しかし、夕方から朝までの間は自動車の数も昼間に比べると少なくなるので、仮に信号機から音が出ないとしても、何とか安全歩行ができるだろう。つまり、視覚障害者の側は、夕方から朝までは、音響式信号機が作動しなくても我慢するわけである。

 逆に、住民の側は、昼間は自動車の音もやかましいので、音響式信号機から音が鳴っていても我慢できるだろう。それに、昼間はたいていの人は働いているから起きているはずである。中には、夜働いて昼に眠っている人もいるが、そういう人にとってはつらいだろうが、そもそも自動車の騒音の方がやかましいはずである。だから、音響式信号機の音が安眠妨害ということにはならないはずである。夕方からあくる朝までの間は信号機から音が出ないので夜の安眠が保障されるから、住民の側も昼間は我慢するわけである。ちなみに、いうまでもないことではあるが、この住民の中には当然のことながら障害者も含まれている場合もある。

 このように、視覚障害者の側も住民の側も、お互いに部分的に我慢しあうという形で調和させて解決しているのである。

 住宅地で夜の10時頃まで信号機から音を出すような状況だと、それこそ一大問題になることだろう。繁華街では夜遅くまで音響式信号機が作動している所もあるが、それは住宅がすぐ近くにないような場所だからである。

 前掲拙著第2章でも述べたが、音響式信号機は、音楽が鳴るものよりも鳥の声が鳴き交わすものの方がよい。それは単に、青色の方向が簡単にわかるということだけではなく、鳥の声に似ているので、その音が極端に耳ざわりになるようなことにはならないのではないかと思われるからである。したがって、この信号機を設置したならば、以上述べてきたような衝突が起こることは、あまりないのではないかと考えられる。

 

(2)障害者の居住権か住民の財産権か

 次に、障害者の居住権の保障と住民の財産権の保障との衝突について述べることにする。

 人はどこで生活するのもどこへ引っ越しするのも自由であり、それは憲法第22条で「居住の自由」として保障されている。また、財産権が、やはり憲法第29条で保障されている。憲法でも保障されている居住権と財産権が衝突するという出来事が起きることがあるのである。

 次のような出来事がマスコミでも大きく報道されたことがあり、記憶に残っている人もいるだろう。それは、障害者のための施設を建設しようとしたときに、住民が猛反対したという出来事である。

 住民側が反対した理由は、表向きは、住民の了解を取らずにいきなり施設を建設するのは納得できない、というようなことである。しかし、もしも住民に事前に施設建設を知らせたら、果たして了解を取ることができただろうか。私は結果は同じだっただろうと考えている。もちろんのこと、事前に知らせたならば気持ちよく了解する住民もいるかもしれないが、施設建設反対の声が完全になくなるわけではない。

 一般的にいって、障害者施設や老人施設等の施設建設に対し住民が反対するもっとも大きい理由は、土地の値段が下がると懸念されているためである。つまり、障害者等の施設が建設されると周辺の土地の値段が下がり、せっかく多額のお金を出して購入したマイホームが、買った時の値段で売れないどころか安くなってしまう状況がしばしばあるとされている。要するに、財産が目減りする、財産権が侵害されることになるので、施設建設に反対するのである。

 なぜ土地の値段が下がるのかは、逆の現象を考えればすぐにわかるはずである。40年ほど前のことになるが、元巨人の投手の江川選手が豪邸を建てたというニュースがテレビで大きく放映されたことがあった。そのときに近所の女の人がインタビューに答えて次のような意味のことを言っていた。「江川さんがここに家を建てたので、この辺の土地の値段が一挙に5倍にもなりました」と。この人は、土地の値段が上がったことを喜んでいたのか怒っていたのかわからないが、こんなふうにインタビューに答えていたのである。一般的にいって、土地の値段が一挙に上がるというのは、鉄道がそばを通るなどの立地条件が良くなるとか、温泉が出たとか、等々の場合であろう。ところが、単に有名人が家を建てただけで、土地の値段が上がるのである。有名人が家を建てると、その付近は「環境の良い地域だ」という評価がなされ、おそらくそのために土地の値段が上がるのである。

 これとは逆に、障害者等の施設が建設されると、いろいろなデマが飛び交うことがある。デマというのは意識的に流されることもある。ときには、単なる想像の噂話がまことしやかに広がっていくこともある。たとえば、障害者施設が建設されると汚い水を流すのではないか、障害がうつるのではないか、伝染病が発生するのではないか、さらには、障害者が何か犯罪を起こすのではないか、等々のデマが流れることがあるのである。そのような噂が流れると、そんな施設があるところは「環境の悪い地域だ」というレッテルが貼られ、おそらくそのために土地の値段が下がるのではないかと考えられるのである。しかし、現実に土地の値段が下がるかどうかについては、私は確認できていない。

 財産を守るのは憲法でも保障された権利であるから、土地の値段が下がるような障害者施設の建設に住民の側は反対するわけである。

 一方、障害者の側からいわせると、どこで生活しようが自由であり、それは憲法でも保障された権利であるから、誰からも侵害されるべきものではないので、街中に住んだり施設を建設したりするわけである。

 このように、憲法でも保障されている権利と権利が衝突しあうことがしばしば起きているのである。そして、これが大きな社会問題となることがあるのである。ちなみに、「障害者の側」には支援する健常者もいるし、「住民の側」には障害者もいることは、改めていうまでもないことである。

 この衝突を調和させた形で解決するのは大変困難である。なぜなら、調和させるための「妥協点」が見つけられないからである。

 前項で述べた視覚障害者の安全歩行の確保か、住民の安眠確保か、という衝突では「妥協点」がある。昼間は信号機から音を鳴らしてもいいが、しかし夕方から朝にかけては信号機の音を鳴らさない、という「妥協点」がある。ところが、障害者の居住権保障と住民の財産権保障という衝突には、調和させるような「妥協点」がなかなか見つからないのである。だから、この衝突を解決するのは大変難しい。

 障害者の側が強引に施設を建設すれば、住民の側は反発し、それこそ障害者排除というような運動を猛然と展開するかもしれない。逆に、住民の側の主張を全面的に認めて、障害者施設を別の場所に建てるということにすれば、おそらくは人里離れた場所に建てるしかないから、障害者は隔離同然の状況に置かれてしまうかもしれない。この衝突は、いったいどうやって解決すればよいのだろうか。

 この衝突を解決するには、そもそもの原因となっているものを取り除くしかないだろう。土地の値段が下がらなければ、住民の側の施設建設反対の声は、それほど大きくはならないだろうと思われる。そのためには、障害者について正しく理解してもらう取組みをすることである。そのことを通して、施設建設に対して偏見に満ちたレッテルが貼られないような状況を創り出していくことである。それでもなお、施設建設に反対する人はいるかもしれない。そのときにも、粘り強く理解を求め続ける取組みを行なうことが肝要である。

 障害者施設が建ったからといって、汚い水を流すわけでもないし、犯罪が起きるわけでもないし、障害がうつるわけでもない。施設建設というのは、そんなものとは無関係であり、障害者も市民と日常的に触れ合える街中に住みたいのだということを強調し続けることである。

 しかし、障害者について理解したとしても、施設が建設された時に現実に財産が目減りするのを止めることができるような状況になるまでには、長い時間を要することだろう。したがって、財産が目減りしないようにするために、すなわち土地の値段が下がらないようにするために、障害者への理解を深めることによってレッテルを貼るという状況を解消し、共に生きることの意味を根付かせる努力を続けるしかないだろう。その際、理解を求めるために障害者の側が最善の努力を尽くすことは必要であるが、決して卑屈になることはない。住民の側の理不尽な行為に対しては、正面から抗議することも当然必要なことである。

 レッテル貼りが充分に解消されていないにもかかわらず、この衝突があまり大きな問題にならないまま施設建設が実現している地域もある。それは、住民が障害者について理解を深めたからなのか、財産が目減りすることよりも障害者と共に生きる方が大事なのだということを認識したからなのか、それとも住民の側がいやいや我慢をさせられているからなのか、その辺のところは何とも言い難いが、障害者が街中に住み自由に外出できる状況が一般化すれば、この衝突が少なくなることは多言を要しないだろう。

 

(3)障害者の間の衝突

 ここで重ねて述べておきたいことがある。前2項で述べた住民というのは、健常者とは限らない。住民の中には障害者も含まれている。

 すなわち、視覚障害者の安全歩行の確保か住民の安眠確保かの衝突では、信号機から音が鳴ることに対して、その信号機が設置されている付近に住んでいる障害者が、クレームを付けることはないとはいえない。逆に、視覚障害者の側に立って、他の住民の説得に回る場合もあり得る。また、住民を説得に回る人の中には健常者が入っていることもある。だから、住民にはさまざまな人がいるということである。

 居住権の保障か財産権の保障かという衝突においても、住民とは必ずしも健常者ばかりとは限らない。障害者も含まれていることもある。その障害者が自分の財産を守るために、施設が建つことに反対することもあり得る。逆に、賛成することもあり得る。また、施設建設に賛成する健常者もいる。

 したがって、権利と権利の衝突においては、障害者と健常者の衝突とは限らないのである。障害者と障害者の衝突もあり得るということを見逃してはならない。さらに具体的な例を挙げてみよう。

 車椅子に乗っている障害者にとっては歩道に段差はない方がよい。車椅子は段差があるとそこから先に進むのが困難だからである。ところが、視覚障害者にとっては、拙著『視覚障害者に接するヒント』第2章でも述べたように、歩道にはある程度の段差がある方がよい。なぜなら、視覚障害者が外出時に安全確保が困難になるのは周辺情報の入手が困難だからである。すなわち、歩道に段差がなかったならば、そこが歩道であるという情報が視覚障害者には伝わりにくい。したがって、ある程度でも段差があるならば、それを白杖の先で触れることによって、歩道であるとの情報として伝わるのである。

 このように、目の見えない人にとっては、間違って車道に出ないようにするためや、常に曲がり角を確実に察知するためには、歩道に一定の段差がある方がよいということになる。ところが車椅子に乗っている人にとっては、歩道には段差はない方がよいということである。

 これは明らかに、衝突があるということ、現実に主張として衝突するかどうかは別として、権利と権利が衝突しあうのである。障害者同士でも衝突しあうことがあり得るのである。この衝突は、どうやって解決すればいいのだろうか。

 この衝突には妥協点がある。妥協点があるからこそ解決ができているのである。すなわち、歩道はだいたい2センチ程度の段差にしてある。この程度の段差であれば、何とか車椅子でも行くことができ、白杖の先端でもそこが歩道の切れ目だと察知できる。というふうな妥協点があり、車椅子使用の障害者と視覚障害者との衝突というものは、調和させた形で解決しているのである。

 

(4)差別語撤廃か表現の自由か

 権利と権利の衝突で人々に広く知られている典型的なものとしては、差別語撤廃か表現の自由かの衝突がある。

 すなわち、障害者にとっては差別語や差別的表現は使わないでほしいという要求があり、差別語撤廃を求めている。この主張は当然であり、正しい要求である。なぜなら、差別語を使われることによって、障害者の中には精神的苦痛や屈辱を受ける者がいるからであり、時には生きる意欲さえ挫かれることもあるからである。精神的苦痛や屈辱にとどまらず、差別語の使用によってさまざまな新たな制度による差別が生まれたりすることもあるので、差別語の撤廃を求めることは障害者の生存権にも関わる重要問題である。

 ところが、差別語撤廃を求める主張に対して、それは表現の自由を侵すものだという主張がある。表現の自由は憲法でも保障されている権利であり、これを侵すことは人権侵害だというのである。表現の自由を守るというのは、正しい要求である。

 このように、正しい主張同士が衝突しあうのである。そして、この権利と権利の衝突は、いまだに解決の糸口すら見いだせない難問題なのである。

 さらには、この衝突がなかなか解決できないのは、政治勢力が背後に控え、その結果、障害者の勢力が分裂した形の衝突になり、障害者が一致団結して差別語をなくす運動に取り組むことができていないからである。障害者やその団体の中にも、差別語を撤廃するよりも表現の自由を守る方が大事だと主張する者もいるのである。差別語の使用禁止は「言葉狩り」だとして、差別語撤廃運動に反対する運動を積極的に取り組む者がいる。そのために、障害者と障害者の衝突、および障害者団体と障害者団体の衝突も起きているのである。政党の中にも、差別語撤廃の主張に反対のキャンペーンを張るものがあるなど、政治勢力の衝突もあるのである。したがって、この問題の解決は非常に困難を極めているのである。ちなみに、差別語撤廃か表現の自由かの衝突に関する具体的状況については、拙著『定住外国人障害者がみた日本社会』(1993年)のⅤ章を参照されたい。

 このような衝突があるということを私が知ってから50年あまりにもなるが、いまだに解決されていない。

 日本の社会では、差別されている人は少数者であり、圧倒的多数の者は差別語による精神的苦痛や屈辱がどれくらい大きなものであるかが理解できなかったり、理解しようとしなかったりするので、表現の自由を守ろうとする立場に立つのだと思われる。また、差別語が精神的苦痛や屈辱を与えるものであるということは充分承知している者であっても、差別語をなくしたとしても結婚差別や就職差別などの差別実態を解消させるものではないとして、表現の自由を守る立場に立つ者もいたりする。だから、その多数者のために少数者の主張が押さえ込まれてしまっている状況があるのである。

 この差別語撤廃か表現の自由かの衝突は、両者の主張を調和させるような妥協点が見いだし得ないので、今後も解決はなかなか困難だと思われる。だが、この問題について私の考えを述べてみよう。

 私は、表現の自由というのは何を表現してもかまわないということを意味しているのではない、と考えている。したがって、差別語は当然撤廃すべきだと考えている。しかし、一方的に差別語の使用禁止を強制するのではなく、公的機関を設置し、そこで検討して、「国民の総意」として差別語であるかどうかを決定するのである。差別語であると判定された言葉については、国民が一人一人努力して、その言葉を使わないようにしたり、それに替わる言葉で言い換えたりすることが必要だと考えている。

 表現の自由は何を表現してもかまわないということを意味しているのではない、と述べたが、それについては、いくつかのことで証明できる。

 随分以前のことになるが、当時の総理大臣や外務大臣がその職に在任中、アメリカの労働者や黒人は教育が充分ではないので生産性が低い、などというような意味のことを言ったことがあった。耳を疑うような内容であり、そのひどい発言を今も私は忘れられない。そのような発言がなされたとたん、アメリカ側から猛反発があった。差別である、ということで大きな非難の声が上がった。すると、総理も外相も、弁明するとともに陳謝した。もし、表現の自由が何を表現してもかまわないということであるならば、陳謝する必要はないはずである。なぜ陳謝したのだろうか。それは、国際的にも、表現の自由というのは何を表現してもかまわないということを意味しているのではない、ということだからである。

 1989年11月20日に、“児童の権利条約という国際条約が締結された。日本もやっと1994年3月になって批准し、それは同年5月22日から国内で発効するに至った。同条約では、原則として、18歳未満の児童に選挙権と被選挙権以外のすべての権利を保障することを定めている。もちろんのこと表現の自由についても保障している。ところが、この条約では、表現の自由というのは何を表現してもかまわないというふうにはしていないのである。すなわち、他の者の信用を失墜させたり、国の安全や公の秩序の維持や道徳等を乱したりする表現については、法律をもって表現の自由を制限することができる、と第13条において明記されているのである。要するに、国際条約においてさえ、表現の自由とは何を表現してもかまわないということを意味しているのではないということなのである。他の者の信用の失墜という中身は、障害者をはじめとするいわゆる被差別者に対する権利侵害や排除することに結びつくような表現、あるいはこれらの人々を中傷するようなさまざまなデマや傷つけるような表現等についても、表現の自由だとは認めていないということなのである。

 繰り返し強調するが、表現の自由というのは何を言ってもかまわないということではない。ということは、差別語の使用を禁止したり、それを言い換えたり、差別的表現を使わないようにしたりするというのは、表現の自由を侵すものでも何でもないということなのである。言葉を使ってはならないとか、思想や意思を表明してはならないというようなことであれば、これは表現の自由を侵害するものである。しかし、特定の言葉の使用を禁止したり言い換えたりすることは、表現の自由の根幹に関わるものでも何でもない、というふうに私は考えている。

 しかしながら、私のような主張は、残念ながら少数派であろう。したがって、差別語の撤廃か、それとも表現の自由かという衝突があるときには、表現の自由を守ろうとする側が圧倒的に強く、差別される側は押さえ込まれているという状況があるのである。このような状況がいつまでも続く限り、この社会から差別がなくなるということはおそらくない、と私は断言できる。

 

おわりに

 本稿で述べてきたように、差別をなくすためには、少なくとも、制度による差別・言葉による差別・意識による差別の三つの現象形態の差別を同時並行的になくす努力をするとともに、その際に生じるおそれのある権利と権利の衝突を調和させた形で解決を図る必要がある。これらをしない限り、差別はなくならない。

 本稿で述べてきたことを人々が実行するならば、1995年版の『障害者白書』で挙げられている、障害者の自立や社会参加を阻んでいる四つの障壁、すなわち制度的障壁・物理的障壁・文化情報面の障壁・意識上の障壁の四つの障壁は、そのほとんどが取っ払われるはずである。

 本稿で述べてきたことが人々によって実行されるならば、差別のない社会は必ず来るだろうと私は考えている。

 いつになったら差別のない社会が到来するかというと、より多くの人が努力すればするほどそれだけ早く来るということである。100年かかるところを80年、80年かかるところを60年、50年というように短縮することが可能である。本稿の第1節でも述べたように、私の実感としても、また事実としても、50年前に比べると40年前の方が、40年前に比べると30年前の方が、30年前に比べると20年前の方が、20年前に比べると10年前の方が、10年前に比べると今日の方が、はるかに差別がなくなっているという状況がある。それ故、これから先においても差別がなくなる方向に進んでいくことは間違いないはずである。みんなが努力すれば、いつかは差別のない社会が実現するものと私は確信している。

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